「受け取り開始は自分で選べます」
一見すると、柔軟でありがたい制度に聞こえる。
でも、その言葉に少し引っかかる人もいるはず。
選べるのに、なぜか安心できず、むしろ迷いが増えるだけ。
この違和感はどこから来ているのだろう?
背景にあるのは“持続させるための設計”
長寿化や財政の問題があるのはよく知られている。
制度を持続させるために、受け取り開始年齢に幅を持たせ、早くもらえば少なく、遅らせれば多くなる。
一見合理的に見える設計。
世の中の普通は「自分で選べるのはいいこと」
一般的には「自分のライフプランに合わせて選べるのはいいこと」と言われ、働き続ける人は遅らせればいいし、早く必要な人は前倒しすればいい。
自己決定の時代に合っているという評価も多い。
「選べる」と「納得して選べる」は違う
ただ、ここにひとつのズレがあります。
「選べる」という言葉が、そのまま「納得して選べる」とは限らないという点で、選択肢が増えるほど、人は迷い、そして迷いの責任は、制度ではなく個人に帰ってきます。
正解がない選択を、自分で引き受ける重さ
たとえば、65歳で受け取るか、70歳まで待つか。
長く生きれば後者が得だと言われるのですが、自分が何歳まで生きるかは誰にもわからないことで、健康状態、仕事、家族・・・どれも不確実な要素。
その中で「最適解」を選べと言われても、判断の根拠が曖昧なままになる。
後悔はいつも「自分の選択」として残る
実際、ある人は周囲に「70歳まで待ったほうがいい」と言われて我慢したが、思ったより早く体調を崩し、「もっと早くもらえばよかった」と後悔する。
逆に、早く受け取って「やっぱり遅らせればよかった」と感じる人もいるでしょうし、どちらにしても、後悔は制度ではなく自分の選択として残る。
自由と引き換えに渡されるもの
ここで見えてくるのは、「自由に選べる」という仕組みが、同時に「失敗も自分の責任」という前提を含んでいることで、選択の自由が広がるほど、不安もまた個人に引き渡されます。
その選択は、本当に自由なのか
もちろん、選べること自体が悪いわけではないのですが、ただ、それが本当に自由なのか、それとも判断の重さを個人に委ねているだけなのか。
この違和感は、たぶん簡単には消えない。
選択肢がある時代に生きている以上、私たちは何かを選び続けることになる。
でも、その選択が「自由」なのか「委ねられている」のか。
その境界は、思っているより曖昧なのかもしれない。
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